昭和54年4月17日朝第22節


                            井出一憲

 徳が受けられる程しの信心、いよいよ神様に委ね縋る所謂神様を信じてのまあ行動と申しますか、所謂ままよと言うのはそこん所が大切だと思うんです。昨日の御大祭に日向教会の先生が御信者さん方沢山一緒にお参りが出けておりました。その一人一人がいろいろおかげを頂いておるお届けを昨日しておられましたが、えー合楽教会にお参りするなら教会付き合いを皆なが、隣接教会が止めると言われた時に、皆ながその教会付き合いをされないならされないでもいい、ね、兎に角合楽での話しをテープに入れてきとりますから聞いてくれと、と言うてある教師会の時にそれを聞いて貰われた。まあ一部には成る程とまあ合点する人もありましたども、兎に角まっ合楽にお参りをするなら村八分にするともうハッキリ言われて、ほならそれでも良いと、ね、所謂合楽の信心にひとつの帰依をまあ出きられた訳です。ね、ほてこれが本当だと言う風にまあ信じられた訳でしょう。あたくしはそのままよと言う事は、

うーんそう言う事だと思うですよね。そら教会としてまあ隣接教会とのお付き合いを祟られると言う事は、そらやっぱうーん大変困る事ではありますけれども、それでも良いそれから段々あちら言うならば、おかげを頂かれるようになって所謂おかげが活き活きとして来た。昨日お届けされた御信者さんの中にでも、もう本当にビックリするようなおかげを銘々が頂いておる。そう言う信心が合楽のうーん所謂修行の第一は、所謂くのいち修行だともう自然に起きて来るその事柄を、修行として受けると言う修行こそがあー一番最高の修行だと、こりゃもう夫婦の者がその事に取り組まれる。ね、そこから言うならばままよと言う心、ね、言うなら死んでもままよと教会がその為に潰れるなら潰れてもよいと言う、言うなら決心の元にそれが出来た。あたくしはうーん何処にどう合楽の信心に帰依されたか、まだ良く分かりませんけれども、うーん始めてお参りをしてこられて帰られた翌朝、お夢を頂かれた、

合楽教会に御自身がお引き寄せを頂いておられる、そしたら親先生がね奥の方へどうぞと言うて、その竹内先生を導いてその奥の部屋に案内をした、お夢を案内されたお夢を頂かれた。ね、それで自分としてもいよいよ今までの信心から、いよいよ信心の奥がへ信心の奥がへと、合楽で導かれなければ自分は信心が分からんと言う事が、うーんそう言うものがあー竹内先生の内容にあって、ね、出来るものならば合楽の信心を皆なの先生方に分かって貰いたいけれども分かろうとしない、そんならまっ自分だけでもと、親教会からも大変酷い事を言われたり、実際仕打ちを受けられたけれどもまっ合楽一遍に一遍道になられた。ね、そして今現在日向教会に、ね、活き活きとした言うならば比礼が輝きだした。この頃あの手紙にもありましたようにね、最近はもうむかーし参ってきよった信者が続々と復帰して来ると言う事が書いてありました。ね、又新たな信奉者も増えて行っておる、先日は天理教の教師と言う方まで参って来るようになったと、と言うような手紙でした。あたくしはねあたくしは思うんですけども、合楽にはねわたくしの信心をいやあたくしの信心ですけれども、もう神様がいよいよん時には、

ままよと言う心が起こせれるような出けるような働きが、その周辺にいつもあっていると言う事なんです。ね、それはまっ言うならば霊的な働きと言うてもよいでしょう。もう神様が直々信者の言うならば懐に神様の方が、飛び込んで来ていろいろ御神夢を下さったりお知らせを下さったり、合楽で御理解を頂いて心が開けたと言うよりも、そう言う働きがいつも合楽ではあっておると言う事、だからいよいよん時に腹が決まるんじゃないだろうかとあたしは思うですね、神様の言うならば先日のあたくしのお夢の中に、あの千代田ユキタさん千代田さんの御主人で、あの若い時からあたくしのお付き合いなんですけれども、亡くなられてもう二三年になりますでしょうか、その千代田さんがあのお夢ん中に現れて、ね、常持ちにお悔やみに来たと言うお知らせを頂いた、ね、常持と言うのは信心の有難いなー信心ちゃ本当有難か、まあおかげを頂いて有難い事が分かっただけでは、ね、御霊様からお悔やみを受けなければいけない、只信心の喜びを常に持っておると言うだけでは行けない。ね、その常持のもうひとつ向こうに合楽と言う所がある、

その合楽の信心神様が喜んで下さり自分も一緒に喜べれる。今日あたくし幹三郎と二人で控えにあの30分間の時間を御祈念して過ごさせて貰いますが、そう言う意味の事をお願いした途端でした、もう部屋いっぱいにバーンち言うようなオイサミがありました。うん自分の願いが成就すると言うのではなくて、ね、神様の願いが成就する只自分がおかげ頂いたあれも頂いた、これも受けたと言う事になればそれは誰だって賀ぶでしょう、それは常持までの世界である常にそう言う喜びを持ち続ける、その喜びをもうひとつ向こうの合楽にかけなければいけない。自分の有り方が、ね、自分の信心が、ね、神様との間にあいよかけよの世界、合楽し合えれる交流の世界に行かないと、只おかげを頂いて有難いと言うだけであったら、それこそ御霊様からお悔やみを受けなければならないような事だと、ね、信心を頂いておる言うならば値打ちがない。信心はそれでもう死んでしもうとる次にゃ続かない、ね、やはり合楽世界に住まわなければ、ね、合楽の信心を求めなければ、ね、神様も喜んで下さる、ね、

合楽建設の願いがいよいよこの23日には、起工式と言う運びになって来た。これは合楽教会にの建物が増えるとか大きくなると言う事ではない、神様の願いがいよいよそのような形で成就すると言う事になるのである。ね、その神様の願いに応えてあたくし共の信心が出ける時に、ね、言うならば合楽の合楽し合える信心とはそう言う所からだと思う、ね、同時にあたくし共が、ね、いよいよん時に言うならば、ね、人を立てるか神様を立てるかと言う時に、ね、それこそ桂先生の御教えじゃないですけれど、親に不幸して神に孝行し、ね、そののちに親孝行する氏子があると、ね、親に孝行して神に不幸をしてそして結局は、親に不幸しておると言う氏子がある。ね、合楽ではもうそう言う人間心を言うならば振り捨てる手と言う生き方が日々解かれている訳です。ね、神様を言うなら中心の生き方、そう言う生き方に加えて神様のお互いの懐の中に、飛び込んで下さるように様々な不思議な不思議な神働きを示し現して見せて下さる、

ね、そこにあたくし共の言うなら微妙な心の動き働きと言うものがです、よかもう皆なが村八分するならしてもよい、本当の信心を頂こうと言うように、ね、日向教会じゃないですけども腹を決められた、決められた所から言うならば、ね、それこそ火の消えたような教会に火が灯リ出したと言うような感じで今おかげを受けておられる。今度の御大祭に日向教会から信者がああしてお参りして来たのが始めてでしたけれども、ね、やはり教会全体に活き活きしたものが生まれておる証拠です。ね、これはあたしはどう言う事かと言うと、所謂ままよと言う心がそう言う人の助かる働き、言うならば日向教会の力でありやはり徳だと思います。ね、あたくし共が、ね、いよいよん時に迷いが起こるような事がある時に、本気でひとつままよの信心が出けなきゃならんが、合楽の場合はそれが誰でもね、出けるように日頃いつも教えてあると言う事です。ね、言うならば人情を捨てて神情に生き抜く事をいつも教えてあるのです。

ね、あたくしはそう思う、天地金之神様は一様におかげを下さってあるけども、おかげがあー受け物が悪ければおかげが漏るぞと、これは人間的に人情的には素晴らしい人、又素晴らしい教会非常に人間心の厚い人やら教会やらがありますけども、不思議と信心によるおかげはそう言う教会には立ちません。ね、本当に神様へ向ける心と言うものが一途な、ね、例え一時は人に悪口を言われても、ね、神様の方へ一途に向こうて行く人であり教会であって、始めて本当な御比礼が受けられる。ね、受け物と言う事は受け物が悪ければと仰っるが、ね、人情を捨てた神情に生き抜くと言う所にお徳の受け物、ね、おかげの受け物が出けると思うんです。ね、ままよと言う心は死んでもままよの事ぞと大変厳しく聞こえますけれども、いよいよん時にはあたくし共の心の中に日頃そう言う教えを頂いとりますから、ね、そう深刻にならんでも、ね、ままよと言う心が出し得るように日頃教えを受けておる、

ね、だからいよいよん時に神様にお試しうを受けるような時でも、それにお試しから漏れるような事のないおかげが頂かれるのです。まあ例話を言うなら限りがないですねそう言うね、もう本当にままよと言う心で神様だけにお縋りし抜かして貰う、そっからおかげを受けたそのおかげには必ず、お徳のとものうたおかげであると言う事、ね、力のとものわない只おかげではない、それは言うならままよと言うような心、人情を捨てた神情に生き抜かせて頂く言うなら心、それがおかげの受け物であると同時に、ね、ままよと言う心の言うならばそんなに深刻にならんでもその方をサット取れれる生き方が身について来ると思うですね。ね、一番邪魔になるのはそう言う時に人情です。ね、だから金光様の御信心はどうしても人情を振り捨てる稽古が必要だと言う事が分かります。どうぞ。